98.10.18の独り言

どうにもならないこと その3

 全ての人間が同じ考えを持つことなど不可能だし、同じ考えである必要もない。他人に自分の考えを押しつけようとも、他人の考えを無理に変えようとも思わない。しかし、ある特定のグループに対する差別や嫌悪を、消し去れないにしても、表に出さない努力くらいはすべきだと思わないか?

 言葉を変えても差別はなくならない、と言う人がいる。だからといって、変える必要がないのか? 差別的な表現を耳にすることで、それまで白紙状態であった人の意識に、その差別を当たり前のものとして植え付けはしないか? その一言で、何の恨みもない不特定多数の人間に不快感を与えるような表現をすることが、賢いことなのか? どんなに素晴らしいことを言っても、無意識の、本筋と関係のないたった一言で、その人自身やその人の意見すべてに嫌悪感を抱かれてしまうとしたら? 総合的に人格を判断できる友人・知人ならともかく、赤の他人をたった一言で一生嫌いになることなど、いとも簡単だ。発言者にとっても、その発言により不快にされた人にとっても、マイナスだとは思わないか?

 日本でも大手メディアから発せられる言葉は、少なくとも最低限の校正を受けている(と思いたい)。それでも差別的な表現がある場合、それがそのメディアの主張であり論旨なのだと考えて差し支えないだろう。しかし、日本では政治家からして失言を繰り返しては謝罪する。謝らなければならないようなこと、声に出す前に少し考えるくらいの脳ミソも持っていないのか? そんなこと、自分の部屋で日記にでも書いてろ! 政治家の失言が日本以上に多い国があるのなら、教えてください。もちろん、確信犯の場合はいくら喧嘩を売っていても、失言とは言わない。それなりの覚悟があっての発言だろう。

 友人から聞いた話。彼が、日本からアメリカ観光に来た友人を案内していた。あるレストランに太った人がいた。おそらく、200キロ級だったのだろう。日本から来た人にとって、信じられないような巨漢が普通にいることは、珍しくて可笑しいかもしれない。日本語が通じないと思い油断して「すっげぇ〜太ってるな」くらい言って笑ったのだろう。言われた本人がそれに気づき、「名誉毀損で訴えてやる」と怒りだし、皿を投げつけられたり、大変な騒ぎになったそうだ。

 しかも、その日本から来た人、日本人根性でなんと「I'm sorry」などと言ったとか。典型的、日本ボケ日本人の行動に思える。友人は必死で、「我々はあんたの話題をしていた訳ではない」「憶測でものを言うのはよくない」と、なんとかその場を納めたそうだ。

 「世界中には飢餓に苦しむ国が山ほどあるのに、あんたは一人で過剰なカロリーを摂取している」「肥満に伴い、医療保険も大量に使っている」(喫煙者の保険料上げろ、なんて言うのなら、デブの保険料も上げろ!・・・いや、失礼m(_ _)m...脱線)「過度の冷房でエネルギーも浪費している」「あんたは有罪だ」くらい言う覚悟がないのなら、「あいつ、すげぇ〜デブだった」なんて、店を出てから友人だけに聞こえるように言うべきなのだ。

 ちなみにアメリカでは、就職用の履歴書に人種や性別、年齢、未婚・既婚などといった内容を書く必要はない。面接時にこれらのことを質問すれば、その会社が訴えられる。たとえ現実に差別があったとしても、差別があればこそ、かくも敏感なのである。

 多種多様な人間が共存するには、常に自分の言動に気を遣わなければならない。さもなくば、民族紛争や地域紛争の中で戦わねばならない。あるいは、攻撃や訴訟も覚悟しなければならない。「典型的」でない人間はいないものと無視して成り立っている、偽りの平和平等主義日本にどっぷりと浸かっている一部の日本人には、理解できないのだろう。

 まだ助走段階だ。合間に普通の独り言がはさまることもあるだろうが、この項はしつこく続く。

 この項に関し、いろいろな意見や感想、質問などを頂いている。これらに関しては、基本的にこの場で答えていきたい。


 「追伸 兼 謝罪」

 以下に書いた件に関し、ほぼ真相であろう内容を受け取った。自分で「一方の話だけで判断するのは危険だ」と書いておきながら、結局、誤解に基づいて文を進めてしまったことを深く反省している。一方が嘘をついていたという訳ではない。単に私が曲解しただけだ。日頃、偉そうなことをさんざん書いておきながら、情けないの一言につきる。大体、該当者がメールアドレスを公開していないことくらいちょっと見ればわかるのに、我ながら馬鹿にもほどがある。私も「不用意な発信者」の一人である。

 既に公開してしまった文章であり、一部の方は誤解したままになってしまうだろう。当事者の方々に心よりお詫びを申し上げます。

 原文を訂正することも考えたが、自戒の意味を込めて原文のまま、恥をさらしておくことにする。

 以下に書いたことが、私の正直な気持ちであることに変わりはない。ありがちな例を用いた一般論として読んで頂けると、非常に有り難い。

 誰が弱者であるかの判断は、あまりに難しい。

<以下・公開時の原文まま>

 こんなことを書いていたら、このホームページの掲示板でちょっとした出来事が起こっていたのに気づいた。時々、掲示板に書き込んでくださる方が、おそらく掲示板に書き込んだために第三者の知るところとなった電子メール・アドレスに、ひどいメールを送られたようだ。私はそのメールを読んだ訳ではないし、一方の話だけで判断するのは危険だ。しかし、掲示板に書き込まずに彼女に直接メールを送ったあたり、掲示板に書けば自分に非難が集中することがわかっていてやった確信犯だろう。誉められた内容ではないことは容易に想像できる。

 実は、暢気なことに私は、今回の出来事にかなり驚いてしまっている。彼女の書き込みは、アメリカに来たばかりの日本人誰もが経験するストレスをぶちまけたものがほとんどだ。多くの掲示板で問題になっているような、非常識で他人に不快感をもたらすような書き込みでは決してなかった。もちろん、何を不快と取るかはその人次第だが、そのために非難されるような内容とは思えない。

 インターネットというのは恐ろしいメディアだ。誰もが簡単にホームページやメーリングリストを持てる反面、自分が発信者であるという自覚がないまま不特定多数に「覚悟のない」文章を公開している人間も多い。

 問題のメールが匿名アドレスであったかどうかは不明だ。しかしインターネットを使えば、かつての電話や手紙といった方法より格段に簡単に匿名で他人を攻撃できる。

 はっきり言って、覚悟のない不用意な発信は不快だ。しかし、他人の掲示板にごく普通の書き込みをしただけで誹謗中傷されることまで覚悟しなければいいけないのか? 彼女に非があるとすれば、それは自分の弱さを見せてしまったことだけだ。彼女なら反撃は来ないと考えたのか。

 正直、未だに驚いている。確とした結論も出せない。現実の世界で、(様々な意味の)弱者が反撃することは困難だ。メールで死にはしない、電話番号や住所をつきとめられるほどは怖くない、と考えようか。インターネットは、弱者が身の危険を伴わずに反撃できる場であって欲しい。


エッセーのメニューに戻る
  • 次回の独り言に行く
    過去の独り言メニューに戻る
  • 前回の独り言に戻る
    トップに戻る