突然ですが、最近読んだ雑誌に「希望」というのは望みが薄い、という意味だと書いてありました。確かにそう言われてみれば「希」というのは「希硫酸」などのように、薄いという意味を表します。なあ〜んで今までそんな簡単なことに気付かなかったんだろう?と思ってしまいました。
それでは「希望の光」とか「希望を持つ」とかいうのは間違っているか、今まで思っていたのと違う意味を表していたんでしょうか? 「希望を持つ」というのはすなわち、絶望の中にほんの一縷の望みを託す、という様な意味だということになります。
これは日本人特有の遠回し・遠慮文化の産物で、「できたらでいいんですけど、本当についででいいんですけどお願いします」という様な意味で(実際は「ぜってえ〜にやってくれよ!」と思っていても)謙虚に「希(=薄く)望(=望みます)します」と言ったんじゃないかとは思いますが。
実際のところはともかく、私はこの一文にいたく衝撃を受けました。夢・希望。じゃあ、夢はどうだろう? 夢っていうのは本当は眠っている間に見る、手の届かない非・現実。結局、人生なんて束の間の夢でしかない。夢も希望もほとんど実現の可能性のない絵空事でしかない・・・?
だったら「夢も希望もない」人というのは実は幸せな人なのかもしれない。現実を受け入れ、幸か不幸か向上を望まず、自覚のあるなしにかかわらず現状に満足している、と。私のような、どこまで行っても満足できない、もしくは行く先がみつからない、という人間はただひたすら歩き続けるしかない。望みがどんなに薄くても、現実がどんなに苦しくても、立ち止まることができない。
とにかく非・普通であり続けたくて、常に変化を求めて、安定を望まず、ただ進み続ける私の人生の目標とは何だろう? いつか何かが見える日が来るのだろうか? 死ぬまでに本当の「満足」を感じることができるのだろうか? 一体は私はどうしたいのだろう?
今週は正に「独り言」になってしまいました。「希望」というのは私の為にある言葉なのかもしれない。