2004.4.3の独り言

 学生でもないし、そもそも新学期が9月に始まるアメリカに住んでいるというのに、去年も今年も3月から4月にかけて、公私ともにいろいろと大きな変化があった。去年はすべてが悪い方に動いた。もうなにが起こっても驚かない、なんでも来るなら来やがれ!という気分だった。

 今年は、このいくつかの変化が吉と出るのか凶と出るのか、まだわからない。もしかするとずっと先になるまでわからないかもしれないし、吉だったのか凶だったのか一生わからないままかもしれない。だって人生に「もしも」はないし、試しに複数の人生を生きて(複数の選択を試して)みて比べる、なんてことはできないから。でもどうやら、私の運勢は今年から上り調子らしいから、きっと良くなるさと思いこもうとしている。別に占いマニアではないんだけど、良いことを言われたのだから信じようと、努力している。

 それもこれも、すべての行動も思考も、「自分がまだ当分は、どんなに少なくともあと数年は生きている」という大前提のもとに行われている。誰でもいつかは死ぬし、近年の私は昔ほどは死を恐れてはいない。別に生きてなくてもいいんじゃないかと思うことも少なくない。だからって、今すぐに死ねと言われたらやっぱり嫌だ。

 3月半ばにニューヨークに行った目的は、友人のお見舞いだ。お見舞いというよりは、会いに、顔を見に行ったというほうが正しい。彼女は2年半前からガンを患っている。ガンが発病して以降も、出張などでニューヨークに行った際に何回か会っている。一緒に食事をしたり、何人かで集まってカラオケに行ったこともある。一生、定期的に検査を受け、抗ガン剤を飲み続けなければならないとは聞いていた。でもそんな状態ではあってもまあ普通に日常生活は送れて、具体的な年数は考えたことがなかったけれど、なんとなく普通の人並に生きられるものと思っていた。

 実際、今年の1月下旬までは毎日通勤していたほど元気だったのだと、今回会った時に彼女自身が言っていた。私が会った時は自宅で寝たきり(アメリカは、余程のことがない限り、日本のように入院はしない)ではあったものの、話し方はしっかりしていた。相当痩せていたし、髪の毛も抜けてはいたけど、ごく普通に会話を楽しみ、上半身を自力で動かし、一緒にお菓子をつまんでいた。

 頭が良く、ジャーナリストとして、編集者として、学ぶところの多い優秀な人だった。子どもの頃から猪木さんのファンだったり、ギャンブルが好きだったりと、私と共通項が多い彼女。お土産に持って行った猪木さんの昔の試合のビデオをとても喜んでくれた。幸せを感じるとガン細胞は死ぬそうなので、あのビデオを見て、少しでもガン細胞が減ってくれればと思っていた。でも、彼女にあのビデオを見る時間が残っていたのかどうか、わからない。

 私は、本当にギリギリのタイミングで「元気な」彼女に会えたようである。私が彼女を訪問した直後に彼女に電話をかけた共通の友人は、まともに話せなかったと言っていた。1週間後には、別の友人が彼女はもう自力で寝返りを打てない状態だと教えてくれた。さらに別の友人から聞いた話によると、最近では彼女は1日中眠っていることが多いという。

 私に会ったからって彼女が元気になるわけがない。ただ、私が彼女に会いたかった。だからニューヨークまで出かけて行った。ちゃんと会えて、ごく普通の会話を楽しめて本当に良かったし、嬉しかった。1週間遅かったとしたら、私は彼女に何を言えたのだろう。いつも自分が相手の立場だったら何と言ってほしいか考えて話すのだが、こういった場合に何と言ってほしいかなんて全然わからない。そもそも彼女の立場になってみることができない。

 自分が確実に死んでいくことがわかっている。まだ38才である。やりたいこと、やり残したことはたくさんあるだろう。そして自分がいなくなったら、愛する夫が孤独になってしまう。夫にとって、真の友人は彼女しかいないのだという。夫のことが心配で心配でならない。そんな立場になってみることができない。どんな気持ちで、何を言われたら嬉しいのか、何を言われたら安心できるのか、何を言われたら救われるのか、私にはまったくわからない。私には想像もできない。

 別れ際に「これからも頻繁に連絡を取り合おうね」と言った彼女の言葉が印象に残っている。私は「うん、また近いうちに電話かファックスするね」と応えて別れてきた。その時はそんなに急激に容態が悪化するとは思っていなかったから、本当にそうしようと思っていたのだ。だけど勇気がない私は、あれ以来、彼女に電話の1本もかけられずにいる。例えかけたところで話ができるかどうかはわからない。だけど私は、何を話せばいいのか、何と言って励ましたらいいのか、わからなくて、勇気がなくて、そもそも電話をかけられない。

 ただただ、共通の友人たちに様子を聞くことしかできない。私は勇気がなくてだらしがなくて、約束を守らないひどいヤツだ。彼女の夫の、諦めきれない、希望を捨てきれない、藁にもすがりたいといった言動や表情が脳裏に焼き付いている私は、彼に様子を聞くことすらできない。

 私は臆病で情けないヤツだ。頭で考えるばかりで何も行動に移せない。だけど、いいことがあるといいな、と思ってる。占い通り、どんどん事態が良くなっていくといいなと願ってる。「別に生きていなくてもいいんじゃないか」なんて言いながら、そのくせ自分が幸せになりたいと思ってる。「長生きなんかしたくない」などと公言しつつ、でも少なくともあと10年ぐらいは生きているだろうと、何の根拠もないのに確信している。口では今この瞬間に地震が起きて死ぬかもしれない、明日交通事故で死ぬかもしれない、なんて言いながら、その実、そんなことは起こりっこないと思っている。

 私は彼女にかける言葉を持っていない。夫と話す勇気すらない。そしてロサンゼルスの自宅でパソコンに向かいながら、占いが当たって「自分の」運が好転するといいなと思っている。


 世界中が憎しみに満ちて、そこいら中で戦争や紛争、内乱、侵略が起こり、数え切れないほどの人々が日々理不尽に殺されていく。直接の知り合いでもない、単に偶然そのグループに属してしまっただけの相手を、どうして憎んだり殺したりできるのか理解できない。イスラエルに生まれたことが偶然なら、パレスチナに生まれたことも偶然だ。自分はアメリカを選んで生まれてきたんだ、というヤツがいるのなら、会ってみたいもんだ。

 だけど、世界中で起こっている大量の理不尽な殺戮や暴力や略奪よりも、最近階下に引っ越してきたヤツが立てる騒音にもっと腹を立てている私がいる。100万の知らない人の死よりも、目の前の1つの小さな別離が悲しくて苦しくて涙が止まらない。


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