アントニオ猪木氏インタビュー

「世の中のためになるからではなく、自分がやりたいからやる。
それが本当のボランティア」

 98年4月4日、「アントニオ猪木」は東京ドームで38年間のレスラー生活にピリオドを打った。ドームは、過去最多7万人の観客で埋まった。その後、新団体「世界格闘技連盟」を設立、現在はロサンゼルスに居を移し活動している。

photo 世界格闘技連盟(UFO:Universal Fighting-Arts Organi-zation)の米国オフィスは、ロサンゼルス西部にある。猪木の自宅も近い。すぐそばにサンタモニカの海があり観光の拠点として最適なため、しばしば日本の友人知人が遊びに来る。

 「場所が良すぎますからね。今、何してるのかと聞かれると、無透明で観光ガイドしてます、と答えるんですよ」

 笑顔で冗談を言う猪木は、こちらが面食らってしまうほど気さくだ。

 アメリカへは家族と一緒に引っ越してきた。8才になる息子は、現地の学校に通っている。

 「まったく(英語を)しゃべれないまま来ちゃったんで、登校拒否するんじゃないかと心配したんだけど。ただこの国は、何か優れている部分があると認めてくれるでしょう。(息子は)数学が結構好きでね、1年か2年上のクラスで学んでるみたいで。たまに嫌だなんて言うこともあるけど、何とか(学校に)行ってくれてます」

 息子と一緒にビーチでローラーブレードをすることもある。

 猪木は、「先日、久しぶりにやったらまたすっ転んでね」と大笑い。「やっと少し滑れるようになったと思ったんだけど、時間が空いちゃって。今じゃ、子どもの方がうまくなっちゃった」

 ロサンゼルスでは、日本ではなかなかできなかった家族とのコミュニケーションを楽しんでいる。

 米国に移住したきっかけは、曰く「いい加減な理由」。メキシコからアメリカへ再入国するとき、入国審査であちこちの列に並ばされて面倒くさいなと思った。永住権があれば簡単に入国できると弁護士に頼んだところ「10日目に許可がおりてしまった」

 もちろん移住の理由はそれだけではない。少し休みたいという気持ちがあったのと、海外に出たいとも前々から思っていた。「もうひとつは、世界格闘技連盟のことが頭にあった」

 新日本プロレスをはじめとする格闘技団体では、多くの外国人選手をリングに上げている。契約不履行で日本に来なかったり途中で帰ってしまう選手がいても、今までは泣き寝入りするしかなかった。こちらに本拠地を置きアメリカの法律の下で契約したいという考えは、以前から猪木の頭の中にあった。

 世界格闘技連盟の旗揚げ戦は98年10月、東京で行われた。大会には米国を中心にオランダ、ロシアなど各国の選手が参加。この大会は基本的にノールールで行われた。

 「将来はルールも必要なんですが、今はいろいろな選手が自由にリングに上がれるようにしたいんで。強いて言えば己の持っている格闘家としてのプライドがルール。(例えルールがあったとしても)どんな勝ち方をするかというのは、自分のプライドで勝負するしかないですから」

photo アマチュアも含め、アメリカの格闘技人口は非常に多い。「戦う場の少ないアルティメット(*1)や軽量級の選手にも戦う場所を提供したい。隠れた人材を発掘して、彼らにスポットを当てられる場所にしたいというのが、(UFO設立の)最初の思いだった」

*1:団体により多少ルールが異なるが、一般的に「目つぶし、金的、噛みつき」以外は何でもありの格闘技

 以前からロサンゼルスには何度も来ていたが、住んでみると入ってくる情報も全然違ってくると猪木は語る。米国での仕事も自然に生まれてきた。

 「本当は何もしたくないんですよ」と笑う。「そうさせてくれないのが人生というか、与えられた使命というか」

 猪木といえば、モハメッド・アリとの異種格闘技戦が人々の記憶に残っている。この試合をきっかけに2人の交流は続いており、猪木の引退試合ではアリが聖火に灯をともして、大会に華を添えた。アリはUFOの名誉会長でもある。

 UFOは、インターネットのホームページも作った。

 猪木は元来、メディアからではなく人とのつき合いの中から情報を得ていくタイプだ。しかしインターネットユーザーの中に「アントニオ猪木」のファンがたくさんいることを知り、「そういうファンにもメッセージを送ろうと、ホームページを作り始めた。自分はインターネットのことはあんまりわからないんですけどね。でも、新しいものに対する興味が旺盛なもんで」

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