アントニオ猪木氏インタビュー

「俺しかできないことっていうのかな。
政治の場でも、俺にしかできないことをやってきた」

 猪木は89年、スポーツ平和党を結成。「国会に卍固め、消費税に延髄切り」という鮮烈なキャッチフレーズで見事、参院選に当選した。

 「政治の場に出た時にプロレスはやめるつもりでいたんですよ」。実際に政治家になってみて「何を武器に活動していくか考えた時に、特に外交関係をやっていたので、(プロレスを通じて)もともと自分が持っていた世界的なチャンネルを利用していく」のが有効だった。

 猪木は90年、湾岸危機(その後、湾岸戦争に発展)のイラクで、ミュージシャンや新日本プロレスの選手らを集めて「イラク平和の祭典」を開催、日本人の人質全員解放に繋げた。日本政府がこの計画に反対であったため、当初予定していた航空会社にフライトをキャンセルされた一行は、トルコ航空のチャーター便を使ってなんとかイラク入りした。

 「パフォーマンスと言う奴もいるけど、こんな時こそ俺たちの出番だろうと思って飛び込んでみた。情報というのは行ってみなきゃ、わからないですから」「あの時は外務省を通じて日本に情報が入ってくるのが建前だったから、外務省は勝手な情報を持って来られては困るという姿勢だった」「現地に行ってみると、外務省があまりに無策。ああいった国とのつき合いができていない。日本の外交がいかに遅れていることか」

 「現実には人の問題なので一概に外務省とも言えないんだけど、人が育っていない。例え(イラクと交渉できる人が)いたとしても、(日本のシステムは)それを反映させられない。大新聞も外務省と折り合いよくやりたいから、よほどのことがない限り外務省批判を書かない」「そんな中で自分はプロレスという武器を使って、いろいろ呼びかけて賛同者を連れて行った。自分にはプロレスしかないですからね」

 猪木はことあるごとに「スポーツを通じた世界平和」を訴えてきた。「イラク平和の祭典」を企画した猪木に対する政界の風当たりは相当強かったが、損得勘定抜きで思ったことを行動に移してきた。ほかにもロシアや中国、北朝鮮といった、日本と通常の外交チャンネルが弱い国々でプロレス興業を行っている。

 「俺しかできないことっていうのかな。例えば政治の場でも、俺にしかできないことをやってきた。それがイラクであったり、ロシアであったり…。政治にイベントという発想は日本人の中になかなか入りにくかったんですよ」

 「スポーツ紙が政治を扱うようになったのは、俺が政治に出てからだと思う。それまでスポーツ紙には、政治はスキャンダル以外ほとんど載らなかった。そういう役割というのかな」

 まさに猪木にしかできなかった役どころだ。

 「今、政治はスポーツ紙の方がわかりやすいじゃないですか」

 10年来、プロレスのリングでも講演でも、まず「元気ですかあ?」と始めることにしている猪木は、「今の日本はとにかく元気がない」ともどかしそうだ。

 「日本に一番必要なのが元気。世の中全体が元気がない。政治もそうだし…」

 「こういう混乱の時代こそ(政治の世界に)型破りの人が出てきて欲しい。なんだか全部、培養されたような人ばっかり。同じことしか言わないし。ちょっとは面白いことを言ってくれる、あるいは視点を変えた物言いをしてくれる人がほしいなと思うのに、誰もいないですよ」

 「日本にいた時に見えなかったことが、ここからだとよく見える。(日本で)政治評論家やらいろんな評論家がいかにも日本を世界から見ているようなふりでしゃべってるんだけど、それも借り言というか、独創性のない意見というか。そういうものに毎日毎日慣らされちゃってるから、それが当たり前だと思っているけど、(アメリカにいると)いろんな見方があることに気がつくでしょう」

 「国際情勢も含めて、すべての物事は裏と表で動いているのに、日本では裏の部分は伏せられちゃってる。国民に流される情報は表の情報だけで。善と悪に分ければ、善だけが人間であるといった教育しかない」「悪がいいというのではなく、悪も存在するんだということを認識した上で世の中を見ていかないと…。日本は培養された無菌の状態というか。そういう中では、模索どころじゃなくて何の知恵も沸いてこない。そういう風にさせられちゃったのかな」

 「国会に卍固め…」というキャッチフレーズは猪木自身が考えた。

 「あのキャッチフレーズには、皆が大反対でね。でも俺は10人中8人が反対すると、いつも2割の方にに荷担するタイプで」

 「政治を馬鹿にしてますよって、えらい反対を受けたんだけど。そうじゃなくて、自分の本当の心の思いというのかなあ。形に表現していくというのかな。日本人は下手ですよね。杓子定規に全部はめ込まれちゃった教育の中で生きてるから、はみ出すことができないんだよ。非常識と取られちゃうから」

 「俺はプロレスのリングからモノを見ていくからね。いろんなスポーツがある中でプロレスだけは反則行為が許される。やっていいとは言わないけどね。許される。他のスポーツだと瞬時にペナルティを課せられるか、反則負けになる。プロレスというのは、カウント内なら反則も許されるというのが非常に人間的というか。そういうとこから見ていくと政治も(違った見方ができる)。ルール自体、人間が作ったものだから(はみ出したっていいのではないか)」

 「日本人の気質というのは何でも善悪に分けたがるでしょう。意志表示は玉虫色ではっきりしないのに、物事に対しては白黒はっきりつけたがる。クリントンの事件なんか、絶対に許されないですよね、日本では。でもアメリカは、それはそれ、これはこれとちゃんと分けて見ている。これは良きにつけ悪しきにつけ、いい勉強になるなあと思ってね」

 「この時代には二世議員はいらないんじゃないかな」「選挙制度自体が小選挙区になってしまったから、本当に思いを持った人たちが出てこれない。芽を摘んでしまうような政治体制になっちゃった。日本も一部の大都市を除いてほとんどが農村部でしょう。そういう(古いしきたりにとらわれた)人間関係も大事なんだけど、大事にするあまり新しい人材を認めようとしない。ああいう(少数意見が反映されない)選挙制度は、いろんな国でどんどん撤廃されてきている訳でしょ。逆に日本はそこへ戻ったというのは、本当に許せないな」

 「自民党の一党支配というか、もっとはっきり言えば竹下さんの支配を強力にするための政策だったみたいで。その御輿を新聞社も担いだでしょう。ある新聞社の社長と会った時に、あれは俺たちも間違ったよな、なんて反省みたいなことを言ってたけど」「日本をダメにしちゃうよね」

 「(アマゾンに)ライオンタマリン(*2)という絶滅寸前の猿がいて、それを保護する(世界団体の)名誉会長をしている。猿を保護するには、自然が戻って来なくちゃいけない」

*2:国際自然保護連合刊行の96年版「生存を脅かされている動物のレッドリスト」で、近絶滅種(近い将来に高い確率で野生では絶滅に至る危機にある種)にリストされている。全身が黄金色の毛で覆われたゴールデンライオンタマリンは、熱帯林保護のシンボルになっている。

 「人間が入ってきて伐採したりして、もともとライオンタマリンが住んでいたジャングルがどんどんなくなっていく。最後に残ったほんの一握りの生息地があいにく泥炭地域で、そこに火が入って9年間燃え続けてね。あるきっかけでその土地を視察して、消火活動を援助した。泥炭ですから自然発火するのか、また燃えている」

 「ライオンタマリンの個体数が400頭を切ると絶滅になるということで、繁殖センターができて、繁殖させて自然に返すんだけど、もとのジャングルがない訳でしょ。繁殖させて返してもダメなんだよね」

 「焼き畑で捨てられちゃった土地とか、牧場として使えなくなった土地とか。ジャングルが焼かれていくのと同時に(土地が)どんどん捨てられていく訳ですよね」

 「自然を守るという人はいるんだけど、自然を作るという人はあんまりいないんじゃないのかな。人がやらないことに興味を持つ方だから、(ジャングルの創生に)今、手をかけたところなんですけどね」「128種類のジャングルの種というのがある。椰子だとかいろんな木が含まれるんだけど、苗を育てて捨てられた土地を再生させていく」「何十年も前からやってる事業(*3)があって、今は沖縄で実用化されてるんだけど。弟が今、堆肥からアガリクスというキノコを作ってて、まあまあうまくいきだしたみたい。(俺は)堆肥の必要性を何十年も前に訴えたんだけど、時期尚早だった。発想がいつも10年も20年も早すぎるというか、時代がマッチしない」

*3:猪木は80年、ブラジルにバイオテクノロジーのベンチャービジネス「アントン・ハイセル」を設立。当時ブラジルでは、サトウキビからアルコールを精製した後のバカスという絞りカスが公害問題となっていた。アントン・ハイセルは、バカスを発酵させて家畜飼料とし、その家畜の糞を有機肥料にするという夢のリサイクルを目指した。残念ながら日本とブラジルの気候の違いから酵母が発酵せず失敗。以来マスコミに、ことあるごとに「猪木=借金」と書き立てられることになる。

 「ブラジルの土地は表土がすごく薄いんで、ジャングルを再生させていくためには堆肥がどうしても必要なんですよ。(堆肥を)苗に添えてやって。人間で言えば乳飲み子が乳離れするまで人の手を加えてあげないといけないんでね。3年くらい経つと自生能力がついて、根を張っていきますから、勝手に自分で養分を取れるようになる。そうするとそこに日陰ができますから、湿り気が出て昆虫が帰ってくる、自然のサイクルが戻ってくる」

 「世の中のためになるからということを前提に置かないんですよ。自分がやりたいからやる」「皆さんよく『あの人はボランティアをやっている、いいことをやっている』という定義付けをするんだけど、そうじゃなくて、ボランティアってのはもともと本人がそれを好きか、喜びを感じるかでしょう? 当然人間だから売名も入ってるし、でも、それをやることが自分の喜びだというのが、本当のボランティアじゃないかなと思うんですよ」

 老後は何をするのかと、よく聞かれるという猪木。「格闘ファンの夢を潰すようなことになっちゃうんだけど、それ(格闘技関係)も与えられた仕事だからやるんだけど、自分の心の奥にまた違った自分がいるじゃない。自分に忠実に生きるとすれば、元気なうちにジャングルの創生をやりたいなと」「今までは借金地獄に追われてましたから。やっと解放されたんで」

 「環境保護とかいう最近の言葉になっちゃうと、どうも…。それには違いないんだけど、やってる歴史が違うんだよね。自分がブラジルに移民として渡ってコーヒー園で働いて、そういうとこから自分の今の発想がスタートしてるんですよ」

 「引退に対しては、(現役であることに)そんなに執着なかったから。政治の場に出た時に決心はできてましたから。ただひとつのイベントとしてね、儀式というか…、それが東京ドームだった」

photo 「いつもいつも、スキャンダルとの戦いだったでしょ。それと、プロレス八百長論に始まる偏見との戦い。今でこそプロレスは認知されたというか。今回はレスラー(ジェシー・ベンチュラ)がミネソタの州知事になったし」

 「レスラーっていうのは、ことあるごとに偏見で見られてきた。それを支持するファンも悔しい思いをしてきた。一般紙はプロレスは載せないとか。ルスカ戦(*4)の時に朝日新聞がやっと載せたけど。そういう戦いの歴史だから。ひとつの幕引きとして、(引退の瞬間は)お客さんに対してじゃなくて社会に対してざまあみろというのがありましたね」

*4:柔道のミュンヘン五輪金メダリスト、ウイリエム・ルスカと猪木が、アリ戦の4ヵ月前に行った初の異種格闘技戦

 91年、猪木は約200名の参加者とともに中国に渡った。シルクロードを約2000キロ、全員がオートバイで走り抜け、途中の町や村の人々と民間交流を行う、まさに型破りの外交だ。

 「子どもの頃にスクーターに乗ってたけど、オートバイはあの時が初めてで。結構興奮しましたよ」「現地でちょっと練習したんだけど、転ぶんだよね」「俺も楽しかったんだけど、参加した人たちも生涯忘れないでしょう。自分も楽しくって(参加者には)喜んでもらえて。今また、(そういった計画も)いろいろ考えているんです」

 「日本に帰るとお客さんが分刻みで連なっている。ここにいると誰にも干渉されないんでね、ぼけっとしてる時間、瞑想する時間、そんな中で自分らしさというか、自分らしい人生を送れればいいな」

 UFOの第2戦は、12月30日に大阪で行われた。「認知されるまでが物凄く大変なんですよ。今その戦いをやっている最中だから。あと半年かそこらでUFOも決着が着きますんでね、その間に(選手だけでなく、経営のできる)人が育ってくれれば」「そうしたら自分のためにもっと時間を割けますから」

 猪木が折にふれて使ってきた言葉がある。「この道を行けばどうなるものか/危ぶむなかれ/危ぶめば道はなし/踏み出せば、その一足が道となり/その一足が道となる/迷わず行けよ/行けばわかるさ」。猪木の周りにはいつも逆風が吹き荒れていた。しかし、己の信じる道を迷わず進んできた人生は、多くのファンを魅了し勇気づけてきた。

 猪木は引退セレモニーの中で「人は歩みを止めた時に、そして挑戦を諦めた時に、年老いていくのだと思います」と語った。UFOが落ち着いたらまたアマゾンに行きたいと、少年のように目を輝かせる猪木。人生というリングで挑戦を続ける猪木は、私たちの心をいつまでもときめかせてくれる。

アントニオ猪木の軌跡
本名: 猪木寛至
1943年: 神奈川県横浜市に生まれる
1957年: ブラジルに移住
1959年: 陸上競技のブラジル全国大会で円盤投げと砲丸投げで優勝
1960年: 力道山にスカウトされ帰国、プロレスラーとしてデビュー
1972年: 新日本プロレス設立
1976年: プロボクシング世界王者モハメッド・アリと対戦
1989年: スポーツ平和党を結成、参院選に当選。史上初の国会議員レスラーとなる
モスクワで初のプロレス興業
1990年: 中国でプロレス興業
湾岸危機のイラクで「平和の祭典」を開催。日本人人質全員解放に繋がる
1991年: キューバのカストロ首相と会見
1995年: 北朝鮮で「平和のための平譲国際スポーツ文化祝典」を開催。
史上空前の38万人を動員
1998年: 東京ドームで引退試合。ドーム最多の7万人を動員
ロサンゼルスに移住
世界格闘技連盟を旗揚げ

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