プロレスラーから大学教授へ
ジャンボ鶴田さん、インタビュー

ジャイアント馬場が1月31日に亡くなったショックも冷めやらぬ3月6日、馬場と共に全日本プロレスを引っ張ってきた「ジャンボ鶴田」が引退した。引退セレモニーが行われた日本武道館は、教授として第二の人生を歩む「鶴田友美」を応援するファンの暖かい声援に包まれた。

 鶴田は現在、研究交流教授としてオレゴンのポートランド・ステート大学(Portland State Univ.、PSU)に来ている。滞在は2年間の予定だ。

 鶴田一家がオレゴンに来たのは3月10日。鶴田としては、できるものなら自分だけ先に渡米し、面倒な手続きを済ませてから家族を呼びたかった。しかしビザの関係で、夫人と3人の息子の家族5人で一緒に来なければならなかった。話を聞いたのは渡米からほぼ1ヵ月後の4月13日。

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 「(この1ヵ月)とにかく大変だったんですよ。聞いてくださいよ」と笑う鶴田。ポートランド近郊には、日本の企業がたくさんあり、日本人が多く住む地区がある。しかし、日本語だけで生活できてしまっては、わざわざアメリカに来た意味がない。「息子たちにも、こちらの人とコミュニケーションできるようになってもらいたいしね。(住居は)日本人がいないところ、いないところ、って探したんです」

 住居が決まれば、次はアメリカの銀行口座開設だ。車を買うにも、こちらに銀行口座がないと大きな額を日本から送金できない。「銀行の担当者がくるくる変わったり、なかなか手続きが進まなくて、送金に3週間もかかりました」

 息子たちの幼稚園や学校、土曜日に通う日本語補習校などの入学手続きもしなければならない。日米両国語を話せる家庭教師も探した。渡米したのがちょうど春休みだったため、なかなか先生と会えなかったりしたが、4月に入って生活環境もようやく落ち着いた。

 「子どもはこっちの学校のほうがいいって言うんだよ。授業中にみんな、ゲームボーイやったりポップコーン食べたりしてるらしくて。こっちはテストでも電卓を持ち込めるし。信じられないよねえ」。とは言うものの、順調にアメリカ生活に馴染んでいる我が子の姿に、ひと安心といった様子だ。

 そろそろオレゴン州の運転免許も取りに行かねばならないので勉強している。「まぁ、やることが多くて大変です」。自分の研究には、「ようやく手を付けかけた」といったところだ。

 鶴田は、ポートランドの綺麗な街がとても気に入っている。犯罪も少ない。晴れた日には、小高い丘の上にある自宅から遠くの山を見晴らせる。星空もきれいだ。大自然を相手にした生活を楽しんでいる。一方、こちらののんびりしたペースに、最初は苛立った。「『いつまでにやっておいて』と言ったことができていなくても、怒っちゃだめですね。『できるって言ったじゃないか』と言っても、平気な顔でなんだかんだといいわけをする。その辺の(日米の国民性の)ギャップにもだいぶ慣れてきました」

 「誰かに物を頼んでも、それこそ僕が給料でも払わない限り、何もしてくれない。1ヵ月過ごしてみて、自分でどんどん動かないと前に進めない国だということがよくわかりました」

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 鶴田は、筑波大学の大学院体育研究科でコーチ学を学んだ。現在取り組んでいるのは、運動生理学だ。短い時間で、実際の運動に必要な筋肉を効果的に付ける筋力トレーニング法を研究している。

 今までは、自分の最大筋力の7割程度を使って鍛えないと筋力が付かないと言われてきた。ベンチプレスの記録が100キロだとすると、普段は70キロのウエイトを使ってトレーニングすることになる。

photo 「そうではなく、最大筋力の2割程度を使い、週に3回程度鍛えただけで筋力が付くトレーニング法を研究しているんです。対象は大学のスポーツ選手に限らない。重いウエイトを持つ必要がないので、病気の人や高齢者も気軽にできる。怪我などのリハビリにも使えるのではないかと思うので、病院にも行ってみようと思っています」

 この方法は、ボディビルダーが筋肉のキレをよくするために軽いウエイトを使ってトレーニングするのとは違い、筋肉を大きくするのが目的ではない。日本時代に講師を務めた慶応大学のレスリング部員を対象に実施した調査では、週3回、20%の力で10分程度鍛えただけで運動能力向上に効果があるというデータが現れた。できるだけ少ない時間でいい筋力を付けられれば、それに越したことはない。PSUでは、アメリカ人のフットボール選手などにも通用するのか、試したいと考えている。

 「大学と病院と、両方で研究した成果を持って帰りたいと思っています。まずは大学の運動選手にやらせてみて、どういう結果が出るか楽しみにしています」と、構想は膨らむ。

 今は、レスリング選手の練習やフットボール選手のウエイトトレーニングの様子を見学して、選手たちの現在の状態がようやくわかってきたところだ。学生を相手に研究する場合は、担当教授の会議を経て許可を得なければならないが、なかなか教授に会えなかったり、思うようには進んでいない。「大学というのは規制が多い」と苦笑する。

 鶴田が全日本プロレス入団を決めたのは大学4年の時だ。入団発表の際に「全日本プロレスに就職します」と発言したことは、今でも語り継がれている。「僕は悪い意味で言ったんじゃないんですよ。大学4年になれば、同級生も企業などに就職する。自分の中の最も優れた能力を高く買ってくれる企業に就職するのが理想的でしょう。僕の場合は、一番優れた部分はレスリングだった。レスリングを一番高く買ってくれたのが全日本プロレスだったので、そこに就職すると言っただけなんです。あの時代のプロレスラーは皆、『修行に来ました』とか言っていたし、記者もそういう言葉でないと納得できなかったんでしょうね」

photo 入団後すぐ、テキサス州アマリロに武者修行に出た。師であるジャイアント馬場に「帰りの切符は?」と尋ねたところ、「アメリカの客が満足するような試合ができなければ、日本のお客を満足させることは絶対にできない。メインイベンターになるまで帰ってくるな」と言われた。

 アマリロの空港に着いてみると誰もいない。「これは大変なことになったな。どうしよう」と、2時間ほど一人でじっとベンチに座っていた。

 「そこから僕の人生が始まった」と鶴田は語る。最初はホームシックにもなったが、「このまま、みっともない姿で日本に帰ることは絶対にできない」と思い、がんばった。

 アマレスではオリンピックにも出場したが、プロレスの試合はやったことがなかった。試合の組み立て方がわからず、会場を沸かせるようなファイトができない。最初は他のレスラーの車に乗せてもらってプロレス会場を回っていたが、彼らは自分の試合が終わるとさっさと帰ってしまう。鶴田は最後まで残り、他のレスラーの試合を観て、メモを取りながら試合運びや技の使い方を勉強した。帰りはレフリーの車で送ってもらった。

 アマリロと言えば、当時、人気・実力共に絶頂だったドリー・ファンク・ジュニアとテリー・ファンク兄弟(ザ・ファンクス)の道場がある。彼らが地元にいる時は、訪ねて行ってはプロレスを教えてもらった。鶴田は、ジャイアント馬場とザ・ファンクスを「僕の3人の師匠」と呼ぶ。

 恵まれた才能と熱心な練習のおかげで、普通は2〜3年かかるところ、わずか8ヵ月でプロレスを覚えて日本に凱旋帰国した。日本で1試合もせずに渡米したため、日本のファンは「どんなすごい新人が帰ってくるのか」と、大いに期待していた。鶴田は「ものすごいプレッシャーを感じた」

 鶴田の記憶に鮮明に残っているのは、帰国して8日後に行われた蔵前国技館(当時)での試合だ。ジャイアント馬場と組み、ザ・ファンクスが持つインターナショナル・タッグ王座に挑戦した。試合前、がちがちに緊張していた鶴田に、馬場は派手なピンクのネクタイをプレゼントしてくれた。「蔵前国技館は満員だったし、僕はどっち向いても師匠ばかりで本当に緊張してたんです」。「師匠(馬場)よりも先に出なくてはいけないだろうと思うと、さらに緊張する。客はどんなすごいレスラーかと期待して僕を観ている。その時、馬場さんが『いい、今日は俺が出る』と言ってくれて。本来だったら僕は『いや、いいですよ』とか言うべきところなんだけど、『あ、お願いしますっ』と言ってました」。先にリングに入った馬場は、うまくその場を盛り上げてから鶴田にタッチしてくれた。お陰で鶴田は、あまり堅くならずに戦えた。その試合で、「ジャンボ鶴田は非常にいいレスラーだ」と評価された。

 「わずか半年余り、米国で練習しただけで凄いなあ…って。『天才』なんて呼ばれて、努力しないみたいに言われたけど、本当はものすごく努力した。坊ちゃんレスラーとも言われたけど、実際は僕は苦労人なんです」と笑う。大学の費用も、両親に出してもらったのは入学金だけ。授業料や食事は、東京で建材業を営む親戚から、仕事を手伝う代わりに出してもらった。

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photo ジャンボ鶴田は、あっという間に「トップレスラー」になった。ジャイアント馬場との師弟タッグでの活躍はもちろん、試練の十番勝負を経て25歳にして初のシングルベルトを奪取。84年には、「鉄人ルー・テーズ」直伝のへそで投げるバックドロップでニック・ボックウインクルを破り、日本人として初めてAWAベルトを腰に巻いた。「最強のレスラー・ジャンボ鶴田」の地位は不動に見えた。

 しかし以前から鶴田の心の中には、40を過ぎたら何か違うことをやりたいという気持ちがあった。「全盛期にぱっと辞めたい、格好悪い姿を見せたくないという気持ちがある。もちろん馬場さんのように、生涯1レスラーとしてずっと試合を続けたいという人もいる。ラッシャー木村さんにしても、あの年齢でやっているというのは凄いことだと思います。僕はどの道を選んだらいいのか、随分と悩みました」

 「レスラーは、すぐに独立だとか言って自分の団体を作りたがる。そういう道しかないのだろうか? 自分で団体を作ったり、他の団体に行ったりという、馬場さんの顔に泥を塗るようなことは絶対にしたくなかった」。こう語る鶴田の頭を、90年に全日本プロレスの主力選手が大量に引き抜かれた時の記憶がよぎる。「あの時は、『絶対に連中よりも人気をつかみ、出ていったレスラーを見返してやろう』を合い言葉に、残ったレスラーが一丸となってがんばった。トップレスラーが出て行ってしまったが、かえっていい興行成績を残せました」

 鶴田をB型肝炎が襲ったのは、41の時である。8ヵ月の入院生活を経て奇跡の復活を遂げたものの、以前のようには闘えない。「経済的なことを考えると、テレビのタレントになるのが一番の早道だった。でも、人気というのは一生続くものではない。人気がなくなったらぽいっと捨てられてしまう。残された人生、どうやって生きたら自分で納得できるのか」

 考えに考えた鶴田は、「ここはひとつ、大学院に行って自分に力を蓄えようと思って…。それに大学に入学すれば、自分がどういう道を選んだらいいのか、いろいろな先生方に意見も聞ける。2年間は大変かもしれないけれど、大学で学ぶのが一番」という結論に達した。

 もちろん鶴田は、プロレスや後輩レスラーたちのことも忘れていない。大学院での専攻は体育研究科のコーチ学。スポーツ教育や筋力トレーニングの方法を研究すれば、次の世代の役にも立てる。全日本プロレスへのスポット参戦を続けながら筑波大学に通い、2年目からは慶応大学や中央大学の講師を務め、学生たちから研究データを集めた。

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 鶴田は「ベストパートナーは馬場さん」と語る。「馬場さんとは一番長くタッグを組んだ。もちろん師匠と組むというのは緊張するし大変な面もあったが、僕をここまで育ててくれたのは馬場さんだし、僕の良さをよく見ていてくれた。馬場さんのすごさは僕が一番よく知っている。馬場さんは練習中は厳しかったが、練習を離れると師匠というより良い先輩という感じで、よく飯を食わせてもらったりした。馬場さんのことが大好きだ」

 復帰後の鶴田の中には、「スポット参戦しかできないのに(全日本プロレスにいるのは)申し訳ない」という気持ちがあった。また、アメリカの大学から声がかかったのは、実は今回が初めてではない。「(馬場さんが)亡くなる前に2回ほど、『病気をして体力も落ちたし、(全日本プロレスを)辞めたい』と言ったんです」。馬場は、「俺が生きているうちは、俺は自分の仲間が自分から離れて行くのは嫌なんだ。俺の目が黒いうちは、そういうことを言わないでくれ」と答えたという。

 馬場の病状は、鶴田にも知らされていなかった。「朝日新聞と読売新聞から電話がかかってきて『馬場さんが集中治療室に入った』と言われて、『冗談でしょう』と答えたくらいなんです」

 「非常に慌てました。こんなに早く亡くなるなんて、信じられない。でも、感傷に浸ってもいられない」。「馬場さんとの約束は守った。後輩たちに迷惑をかけてもいけないし、僕は早く自分の次の道を探さなければならない」。鶴田は、後輩レスラーたちを一般社会でも生きていける人間にしたいと考えている。自分にできることは、プロレスラーが現役時代に培ったものを生かせる世界を見い出すことだ。「レスラーが次の道を探す大変さは自分が受け持とうかと思って」

 全日本プロレスに「就職」したジャンボ鶴田は、教授という次の舞台へ見事な「転職」を果たした。PSUでの研究は2年という期限付きだが、「何かしらの成果を必ず持って帰りたい」と意欲を燃やしている。「日本にこっそり帰るようなことはしたくないですからね」と、鶴田教授は明るく笑った。

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ジャンボ鶴田
本名:鶴田友美
1951年: 山梨県に生まれる
1972年: ミュンヘン五輪にレスリング日本代表として出場
  全日本プロレスに入団
1973年: 中央大学法学部卒業
1984年: 日本人として初めてAWA世界ヘビー級王座獲得
1989年: PWF、インターナショナル、UNの3つのタイトルを統一した
  三冠統一ヘビー級の初代王者となる
1992年: B型肝炎のため入院
1995年: 筑波大学大学院修士課程体育研究科にコーチ学専攻で入学
1996年: 慶応大学、中央大学、桐蔭学院横浜大学の講師に就任
1999年: 全日本プロレス引退
  ポートランド・ステート大学の研究交流教授として渡米